フォトエッセイ

繕う。愛する。命を吹き込む。【─Shining Moments:09 ─】

我が家には、トーマスというペンギンがいる。職業、ぬいぐるみ。ボロボロだが、家族にとって とても大切なぬいぐるみだ。赤いくちばしと、とぼけた黄色の目がチャームポイント。しっかりした生地に ぽってりとした肉厚のお腹で、とても抱き心地がいい。

今日は、そんなトーマスをとおして知った、繕いの美しさについての話をしたい。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

トーマスが我が家にやってきたのは、たしか6年くらい前。当時私はまだ学生で、今の夫と付き合っていて、それはデートの最中だった。海外の雑貨を扱っている店で見つけて、一目惚れをしたのだ。
もう忘れちゃったけれど、どこか海外の女性が手作りで作っているとかで、それぞれに個性がある。しかし学生の自分がぬいぐるみに出せる金額ではなかったので、泣く泣く諦めたところ、彼が買ってくれたのだった。

お気に入りのトーマス。可愛いペンギン。そこにあるだけで和んだし、癒しのような存在だった。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ
|家に来たばかりの頃のトーマス

平和が壊されたのは、猫がやってきてからだ。

肉厚のキャンバス地と広いお腹は、爪を研ぐにはもってこいだそうで、トーマスはまんまと餌食になってしまった。まっしろだった自慢のお腹は、見るも無惨にボロボロ。腸が(綿が)飛び出て、かわいそうなほどだった。

悲しい気持ちでいると、夫が言った。「貸してごらん。直るよ」

彼が持ってきたのは、刺子用の針と糸。たて、よこ、と、ていねいに糸を刺していく。
糸が重ねられたお腹は、けっして綺麗ではないが、以前よりうんとしっかりとしていて、トーマスの顔も心なしか誇らしげだった。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

それからも度々猫の餌食になり、ボロボロになったが、そのたびに私たちは糸でお腹を覆った。何度も、何度も。お腹はもう当時の色ではなく、いかにも修復されたそれだったが、しかし不思議と私たちは以前より、トーマスのことを好きになっていた。

繕うほどに、愛着が増すのは何故だろう。
それはもしかすると、物を大切に思う気持ちが、私たちの一針一針をとおして、その物の心のようなところに届くからではないだろうか。
物には、命がない。だからそれはあるいは、物に命を吹き込むような尊い作業なのかもしれない。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

日本には古くから、襤褸(ぼろ・らんる)という文化がある。
貧しくて着物を新調できない農民や漁師は、擦り切れたり破れたりしたところにボロ切れなどをツギハギし、縫い足すことで同じものを着続けた。時を重ねるにつれ着物は最初の面影を残さないほどになるが、それもまた個性であり、人は自分だけでなく、その着物を次の世代、また次の世代と受け継いだそうだ。
当時 襤褸を着ることはもちろん褒められたことではなかったが、それが引き継がれてきたというところに、やはり私は美を感じる。貧しさだけなく、愛着ゆえの行為だったのではないだろうか。
今、この襤褸は、ヨーロッパを中心に相当な価値をもつらしい。大切にされてきた物の意思のようなものに、人は美を見出しているのかもしれない。

ヴィンテージのデニムにも、そういう側面がある。濃いインディゴが徐々に薄れ、淡い水色になる頃、生地は傷み、破れてしまう。そういうものに、布を重ね、糸を重ね、叩いて、また使えるようにする。

あるいはラリーキルトも、それに似ている。古くなって使えなくなったビンテージサリーを、複数枚重ね、手仕事で縫い合せていく。捨ててしまわず、次に繋げるのだ。

針を刺すとき、想いは必ず物に伝わり、良い意思のようなものが宿る気がする。
繕う。愛する。命を吹き込む。
それは単なるダメージの修繕ではなく、むしろ物を育て、より良くするための、美しい作業だ。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ
|トーマスと犯人(猫)

またイギリスには古くから、ダーニングという文化があるらしい。
主に衣類の穴が開いたり、擦り切れたりした部分を、補修する文化。カラフルな糸で修復跡をあえて装飾として見せることで、補修自体を楽しみながら繰り返すことができる。

トーマスもいつかは、ダーニングをしてもいいのかもしれない。
次にやられたら、色付きの糸を重ねてみよう。毎回違う色を、カラフルに。どうだろう?

その黄色のまんまるな目は、ダーニングの予感に、ちょっと期待している。
きっと、前より素敵になる。彼自身、その事実を知っているようだった。

ずうっと先、もし、トーマスを小さな手に渡すときがくるならば、繕う美しさを一緒にして、未来へ託そう。そこにはきっと、私たちが生きた証のようなものも、刻まれていくのだろう。