フォトエッセイ

いつかどこかの少女が織ったギャッベ絨毯で 【─Shining Moments:07 ─】

OUTLET SALE !

買わないわりによく見る絨毯専門店のウェブサイトに、ポン、と、ある日商品が追加された。
イランのカシュガイ族によるギャッベ絨毯。188cm×121cmの大きいサイズで、比較的古いものだが、刈り込みの凹凸が目立ちすぎるため安くしているのだという。

どこまでも広がっていきそうな さまざまな緑と、深い空のような青、子どもの絵のようなあたたかい黄色の線は、パソコンの画面越しにわたしの心を鷲掴みにし、次の日には実店舗に足を運んだ。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

実際に見てみると、なるほど、確かに中心が薄い。
「刈り込みの起伏は 通常昔ながらのギャッベの魅力に数えられますが、この絨毯では見た目にも気がつきやすくなっています。それでもよければ、ぜひ迎えていただきたいです」
店員の勧めるままに、絨毯の上を歩いてみる。もこもことした感触が心地良い。一歩踏み込むごとに草木の匂いが香り、まるで原っぱの中にいるような気持ちに包まれる。

ギャッベ絨毯が、元から好きだった。
ペルシャ絨毯やトルコ絨毯のような端正さにはない、自由で素朴な雰囲気が、自分によく合っていると思っていたからだ。

実際、ペルシャ絨毯やトルコ絨毯は熟練の職人が織っているのに対し、ギャッベ絨毯は遊牧民の一般女性が、あくまで自分たち家族が使うために、手作業で織っている。
だからギャッベ絨毯は、ひと昔前までは商品価値のないものとして市場で認識されていた。完璧でなくともアートのように楽しめるラグとして人気が広まったのは、その長い歴史で見ればほんの最近のこと。ここまで価格が高騰するとは、当時このラグを織っていた女性たちは想像もしなかったことだろう。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

絨毯を実際に触りながら、これを家に迎えよう、と決めた。ほかのいくら完璧なものが同じ価格であったとしても、わたしはこれがいい。画像で見ていたとおりの草木染めならではの自然の色合いはもちろん、ネガティブに説明されていた大げさな刈り込みが、わたしには何より愛おしかった。

もしかしたら、と、わたしは思う。
もしかしたらこのギャッベ絨毯は、遊牧民の少女が、初めて織ったものかもしれない。母親に教えられながら、見よう見まねで織ってみたのかも。
あるいは、上の空で刈り込んでしまったのかもしれない。少女はちょうど恋煩いなんかしていて、考え事をしていたら、思いのほか刈り込みすぎてしまったのかも。

想像を膨らませ、絨毯の向こう側の少女に思いを馳せる。

ものに宿る人の温かさを、わたしは何より心地よく思う。
そういえば、家にあるものも そういうものが多い。

秋田木工の曲木細工による、剣持勇デザインのスタッキングスツール。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

バンコクの路地でおばあさんが手で編んでいた、ちいさなゾウ。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

世界にひとつの作家もののマグカップ、などなど。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

その向こうに人を感じられるようなものを、わたしは美しいと思う。人と自由に会えない今、それは特に、自分の中で重要なポイントなのかもしれない。

こうして先の絨毯は、遠い時間と距離を超えて、我が家のリビングにやってきた。このラグを織ったかもしれない、いつかのどこかの少女に伝えたい。ありがとう。大切にするね。

すこし不揃いな愛らしいギャッベ絨毯の上で、まだ残る草木の香りに囲まれながら、わたしは美しい秋を心地よく迎えようとしている。