手帳は4月始まり派な私。今がちょうど切り替えどきで、新しい手帳に予定を書き込み始めている。
特別な手帳でもないのだが、新しいというだけでなんだか嬉しくて、最初の一文字は必ず丁寧に書きたくなる。学生の頃のノートもそうだった。最初の1ページはやけに綺麗で、最後のページと見比べるとちょっと笑える。
そんなわけで新しい手帳を初めて開いていた時だ。テーブルにちゃんと座って、ピシッとページを開いて、ゆっくり文字を書き込む私を見ながら、夫が言った。「その筆箱、かなり育ったね」。夫の目線は私の新しい手帳ではなく、その隣の、新しい手帳と見比べればボロッとしたペンケースに注がれていた。
手作りの革のペンケース
私はこのペンケースを多分10年くらい使っている。手作りの革のペンケース。学生の頃、当時付き合っていた夫が作ってくれたものだ。
実は、このペンケースは二代目である。初めてもらったペンケースは(そしてそれは私が初めて夫にもらったプレゼントでもあったのだが)もっと細くて、スマートな、三角型のものだった。ペン2本と筆箱、定規を入れればいっぱいになってしまうようなサイズ感で、正直に言えば使いづらいったらなかったが、何よりも気持ちが嬉しくて、私は大切に、大切に、そのペンケースを使っていた。
しかしある日、帰る支度をしていると、ペンケースがなくなっていた。探しても、探しても、見当たらない。どうしても見つからない。せっかく作ってくれたのに。悔しくて情けなくて、半べそになって彼に「なくしちゃった」と伝えると、彼は「しょうがないね。ものっていつかはなくなるからね」と言って、後日新しいものを作ってくれたのだ。今度は沢山のペンはもちろん、ハサミまで入るような大きなサイズで。
「ものはなくなるから」
そこからずっと、このペンケースは私と一緒だった。10年間、勉強をするときも、打ち合わせへ出かけるときも。「かなり育ったね」と夫が言うとおり、革はすっかり飴色になってピカピカしている。なんならシミも沢山あるが、エピソードも含めて、このペンケースのことが私はとても愛おしい。私の所持品の中でも、特に大切なものだ。
だけど、今度はなくさないようにしよう、と思い続けているのと同時に、いつかはなくなってしまうのだ、ともどこかで思っている。それは諦めとか悲しさではなく、ただ受け入れるような感覚。この大切なペンケースもいつかきっと、壊れたり忘れてきたりと何らかの理由で、私の手からなくなってしまうのだろう。
「ものはなくなる」と言われたことは、当時の私にずんと響いた。そして以来、ずっと心に残っている。諸行無常という言葉があるように、永久不変なものはない。それはものに限らず、この私自身も。
しかしだからこそ、なくならないものを実感することもできるのだ。
たとえば、このペンケースがここにあるという記憶。このペンケースを通じて思い出せる彼の言葉と、そこにあった想い。これはものがなくなっても、なくなることはない。変わらない事実として存在し続けている。
いつかはなくなってしまうものを通じて、なくならないものを見る。なんだか変な感じだけど、それこそがものを大切にすることのゴールのような気もしている。
出会いと別れのこの春に
夫の何気ない一言に色々と思い出しつつ、テーブルの上の新しい手帳と古いペンケースを見る。そして、この春も、この2024年も、きっとあっという間に過ぎ去ってしまうのだろうなと考える。書き込む字が適当になるのに比例して、手帳自体も、きっとあっという間にボロボロになるだろう。
かといって、新しい手帳の、この綺麗な状態に、私は執着しない。ものがなくなるかもしれない怖さに、身を縮こまらせない。ものはいつかなくなる。だからこそなくならないものを、一つでも多く自分の中に重ねていきたいと思うのだ。
出会いと別れのこの春に、良いことを思い出せたな。人との付き合いにおいても、その流動性をきちんと受け入れていたいと、私は改めて考えるのだった。
とはいえ、春だからと買い物は捗る一方だ。今日書いたことと、物欲は、また違うところにあるみたいで……。
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芸術大学卒のフリーランスライター。AJINOMOTO PARK 主催の投稿コンテスト、新しい働き方LAB主催の書きものコンテストなどで、エッセイ入賞。ピアノ講師でもあり、画家の妻としての一面も持つ。ここでは、暮らしのなかで見つけた 美しさ にまつわるエッセイをお届けします。