フォトエッセイ

喪失という存在を受け入れていくこと。今の私と、骨董茶碗の欠けと金継ぎの景色。【─Shining Moments:38 ─】

山茶碗、私の特別な骨董

人生で初めて骨董を買ったのは、昨年の夏頃だった。大江戸骨董市に出店していた、東京の憧れの骨董屋。雑誌で見たことのある店主に緊張しつつ「勉強し始めたばかりで」と伝えると、少し近寄りがたい印象のあったその店主の表情がちょっとだけ和らいだように見えた。

私の目当ては、抹茶茶碗。骨董に興味を持ったのとちょうど時期を同じくして茶道を始めた私には、自分だけの気に入った抹茶茶碗で茶を点ててみたいという小さな夢があった。とはいえ骨董の茶碗なんて、素人がスッと手の出せる代物ではない。価格を聞くのもドギマギしてしまう。そんな様子を見かねてか、店主はある茶碗を出して私の手に持たせてくれた。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

美濃須衛の山茶碗。平安時代から鎌倉時代にかけて作られたものだろう、と店主は言った。「こんなのでお茶を点てたら、めちゃくちゃ渋くてカッコいいと思いますけど」。素焼きの生の表情と、ぬらっとした松葉色の釉薬、そしてその境目を埋めてゆくようなオレンジ色の焼けが、まるで山間から覗く夕焼けのようにも見えて美しい。私は一目で好きになってしまい、初めての骨董にこの茶碗を選ぶことに決めた。

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価格が比較的手頃だったことも決め手だったのだが、この数ヶ月後に改めて店舗を訪れその話をすると、店主は「それは安く出したねぇ」と大笑い。そうか、あれは、初めて骨董を買うという私のためにまけてくれていたのか。なんて粋なんだろう。

人と物との一期一会。あれからいくつかの骨董品を購入したが、美濃須衛の山茶碗は、私にとって忘れられない一点となっている。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

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骨董茶碗にみる「欠け」と「金継ぎ」

そんなわけで思い入れの深い一点。お茶を点てるのはもちろんのこと、私はこの茶碗を事あるごとに取り出してはひとり眺めている。

見つめていると、素人ながら新しい発見がある。最近特に面白く感じているのは、欠けた箇所の表情だ。

とても古いものなので、どうしたって欠けはあるのだけれど、そこもまた豊かな景色の一つだと感じる。私の茶碗は、口当たりのためか、口縁部のみ一部金継ぎで修復されているのだが、それも見た目として好きな特徴の一つだ。金継ぎと言ってもやはり上手い下手、センスのあるなしはあるようで、骨董屋さんでも「この金継ぎが好みで買い付けた」といった説明を聞くことがあるが、その言葉を借りるならば、私の茶碗の金継ぎは、好みの金継ぎ。範囲は広いが、素朴で嫌味がない。

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またそのままになっている欠けも、味わい深い。こちらは特に肌触りにおいて魅力的だ。欠けと言っても、長い年月により尖った箇所は一つもなく、どこもまろやかで、特に高台なんかは指に吸い付くよう。他の茶碗には代えられない個性だと思う。

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欠けたままも、金継ぎも、どちらも良い。欠けたまま私の手に触れる箇所も、金継ぎで修復されて私の唇に乗る箇所も、欠けたことが肯定されているという点で共通しており、その共通点により調和し、また新しい美しさが生まれているのではないかと感じた。

喪失という存在を受け入れていくこと

唐突ではあるが、実は先日、私のこれまでの人生で最も大きな別れを経験した。もう二度と会えない人がいるのだということを日を増すほどに実感している。このことについてはまだ上手く触れられないが、しかしちょうどこの骨董の原稿を書いていたこともあり、最近の気付きを通じてもう少し話を展開させてみようと思った。

喪失とはなんだろうと、以前考えたことがある。その時私は、喪失とは、その形の穴が自分の内にぽっかりと開くということなのではないかと想像した。反対に出会いは、その人やものが、自分にぴったりと付くようなイメージ。対象が自分にとって大きな存在になるほど、それは次第に自分の中に入り込み、だから失われてしまうと穴となるのだ。その穴は埋まることはなく、私たちは新しい出会いと喪失で凸凹になりながら、人生を通じて自分だけの形を作り上げていくのかもしれない。

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人との別れは、ないことが、ずっとあるという状態なのだと、どこかで目にしたことがある。そうなのだろうなと思う。喪失とはきっと、存在し続けるものなのだ。そこにあったものが姿を変えて、あり続けるということなのだ。

ここで私は、自分の山茶碗を思い出す。長い時を経て今私の手の中にある山茶碗の、欠けと金継ぎの美しい景色。喪失は存在し続けるが、喪失という存在をどう捉えていくかは、私次第なのかもしれない。

心を静めたい時は、茶を点てる。4月、この山茶碗でも何度か一服した。金継ぎにの柔らかな口当たりに、手にしっとりと吸い付くような高台の欠けに、少しだけ慰められるような、大丈夫だと言われるような、そんな気がした。

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