フォトエッセイ

あの葉桜のころの、私の香り。【─Shining Moments:14 ─】

ここ一ヶ月間、家にこもって仕事をすることが多く、気がつけば桜は散り始めていた。心と身体にすこし余裕ができて、散歩に行こうと思えた時には既に、葉桜の季節となっていたのだ。
早い。早すぎる。
多くの歌人が、その儚さを嘆き、歌を詠んできたことに、ちょっと納得する。

けれども私は、葉桜が好きだ。特に、花びらが落ちきる手前。生まれたての柔らかい緑色を、僅かに忘れられたピンク色を、とてもきれいだと思う。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

葉桜といってまず思い出すのは、太宰治の『葉桜と魔笛』である。
「桜が散って、このように葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。」という一文で始まる、うつくしい短編小説。老夫人が、死期の近い妹と厳格な父親と暮らした、二十歳のころの出来事を回想する話だ。

この物語が私はとても好きなのだけど、今日は内容は置いておいて、先の冒頭の一文を引用したい。

「桜が散って、このように葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。」

…私にも、桜が散って、葉桜のころになれば、思い出すことがある。
ある友人のことだ。

十代のころ、私と一緒に、葉桜を見たいと言ってくれた人がいた。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

散歩に出かけて葉桜に出会い、私は今年もやっぱり、その人のことを思い出していた。

当時まだLINEなんてなくて、メールでのやり取りで、その誘いは届いた。とても色っぽく思ったことを、よく覚えている。『葉桜と魔笛』が好きだと私が話したからかもしれないし、単にその人が、人混みが苦手だったのかもしれない。前後のやりとりは思い出せないけれど、満開の桜ではなく、葉桜を見たいと、友人は言ったのだった。私たちには葉桜のほうが似合う。たしか、そんなことを話した気がする。

結論から言って、葉桜は見に行かなかった。
だけど私の中で、その人との間にあった友情とも恋愛ともつかぬような特別な感情は、このように葉桜のころの雰囲気ともに、大切に仕舞われているのだ。

そして、この記憶とともに呼び起こされるのが、当時好んで使っていた香水である。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

今年、葉桜を見かけて、何とはなしに当時使っていた香水を纏ってみた。

〈Diptyque(ディプティック)〉の「Philosykos(フィロシコス)」。
イチジクの葉の爽やかさと、果実のミルキーな甘さ。みずみずしい香りはまさに、桜が散り夏を迎えようとする、今の季節にぴったりだ。

香水って、脳に触れるものだと思う。J-POPでも歌いつくされてきたように、街中で知った香りがすれば振り返るし、同時に記憶がブワッとフラッシュバックしたりする。望んでも、望まなくても。

この「Philosykos」もまた、自分にとってはそんな香水で、私をあの葉桜のころへと連れて行くのだった。

正直、今の私にとって、「Philosykos」はもう好みの香りではない。
今は同じく〈Diptyque〉の「Vetyverio(ヴェチヴェリオ)」や「Volutes(ヴォリュート)」を好んで使っているし、服装や性格的にも、このくらい重みのある香りのほうが自分に似合っていると思う。

それでも、葉桜を見ていたら、纏いたくなってしまった。自分のためだけに身につける香水って、面白い。いろいろな記憶と、ifと、優しさや悲しさが、初夏の風のように、心地よく脳を撫でていく。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

最後に、葉桜についてもう一つ。歌人・笹井宏之の短歌を、ここに載せておきたい。

『 葉桜を 愛でゆく母が ほんのりと 少女を生きる ひとときがある 』

この先もきっと葉桜のころになれば、私は束の間、少女を生きるのだろう。

葉桜と「Philosykos」と、友人と、あのころの私。
全部がこの季節に閉じ込められて、いつまでも、ほのかに香っている気がした。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ